前回の続きです。

よければ、前のも読んでください。
 土曜の朝。

 ソファーに丸めていた体をほぐし、私は立ち上がり、土曜の朝日を身体全体に浴びた。

 気持ちのいい朝だ。身体全体が日差しを浴びるだけで癒されていく気がした。

「……お兄ちゃん」

 ――だが、心はどうにも癒されず、未だしこりが胸の内に僅かに残っていた。

 声に呼ばれ振り返れば、そこにはキッチンでエプロン姿の香奈がいた。少し申し訳ない様子で、包丁を片手にワイシャツ姿の俺を見上げている。

 似合わない格好だ。

 本当に、この部屋にいるには、似つかわしくないほどに―――

「……お母さんから電話は?」

 ビクリ……

 彼女は俯いたまま、小さく首を振るだけで何も答えない。

 それは無言の証明。

 なら、私がすべきことはおのずと決まっていた。

「……朝飯を食べたら帰る準備をするぞ」

「……やだ」

「香奈……」

「―――絶対、絶対やだ」

 ―――なぜ……どうして……

 ただ、ソレを問いかけるだけの度胸もなく、私は苛立ちに髪を掻きむしりながら、キッチンで縮こまる香奈ににじり寄った。

 ハッとなる少女の顔。

 少し青ざめた様子のまま、香奈はおずおずと後ずさるままに、手に持った包丁を僅かに動かした。

 その切っ先に、歩み寄る俺を捉える―――

「……やだ……私……お兄ちゃんといたい……」

 彼女は弱々しく首を振る。

 私は、立ち止まらなかった。

「……お前も、俺の居場所を取るのか?」

「そんなつもりじゃない。私はお兄ちゃんと一緒にいたいのっ」

「それがいやだって言っているんだ。ここは俺の部屋だ、俺だけの部屋だ!他の誰にも侵されない、俺だけの部屋だ!」

 怒声がリビングに響き渡る。

 喉が潰れそうになりながら、俺は息を切らして、おびえる香奈に叫んだ。

「十歳で母親の愛情を取られた人間の気持ちがわかるか。居場所がないまま肉親に冷たい目を向けられる人間の気持ちがわかるか、一人のまま社会に放り投げられた人間の気持ちがわかるか、しがみつくものがないんだ、ここしか俺の場所はないんだ!」

「……私は……お兄ちゃんが好き。だから、お兄ちゃんのそばにいたいの……!」

「それが手前勝手だと言う!勝手に奪っていって何様のつもりだ!施しか!哀れみか!そんな感情で俺を見るな!」

「……」

「俺が好きなら―――せめて、俺の場所を取らないでくれ……俺には、帰る場所がここしかないんだ……」

「お兄ちゃん……」

「頼む……俺の居場所を取らないでくれ……」

 私は泣きながらその場で土下座をした。

 カラン……

 音を立てて包丁が彼女の手からこぼれた。

 俯いたままそっと背中を撫でられる感触を覚えた。

 すすり泣く声が聞こえた。

 彼女の、ささやく声が聞こえた――――

「私……昔からお兄ちゃんが好きだった……今も好きだよ」

「……」

「昔からそうだった。ぶっきらぼうなのに……いつも一緒にいてくれて……困った時はいつも助けてくれて……お兄ちゃんは私のヒーローだった……ずっと一緒にいたかった」

「……お前に、しがみつくしかなかった……あの家で、誰も俺を見てくれないなら、せめてお前にしがみついて居場所を作るしかなかった」

「私も……そうだよ」

 彼女の言葉に、私は顔をあげる。

 ジンワリと涙を浮かべながら、照れくさそうにほほ笑む香奈の顔を覗きこみ、目を見開く―――

「だって……お兄ちゃんのそばが私の居場所だもの……」

「香奈……」

「ずっと好きだった、お兄ちゃんのそばが私の場所でずっと傍にいてくれて……それだけでよかった」

「……」

「あの家は、何にもないもの……お兄ちゃんがいないもの……お兄ちゃんが好きなのに、好きな人が傍にいないもの」

 彼女はそう言って、俺の肩に小さな顔を埋め、そっと倒れ込むように身体を預ける。

 きゃしゃな身体だ。

 抱きしめれば手折れてしまいそうなほど―――柔らかく、ほのかな甘い匂いが漂っていた。

 少しだけ熱っぽかった。

 ずっと抱きしめていたいと思うほどに―――

「香奈……」

「どこにも行かないで……お兄ちゃんがどっか行ったら……私どこにも居場所がなくなるよ……」

「……」

「お願い……ずっと傍にいて……私だけのお兄ちゃんでいて……」

「――――俺は……」

 どうすれば、いいのだろう。

 彼女の寂しさに、俺はどうやって答えるのだろうか。

 母は、私から愛情を取り上げたあの人は、私に何も教えてはくれなかった。

 父は、私に苦痛だけを残していったあの人は、私に何も教えてはくれなかった。

 私は……どうすればよかったのか。

 俺はどうすれば―――――






 あれから、一週間ほどが過ぎた。

 三月も中ごろのまだ少し寒い春先の季節だ。

『――――いいの、雄一?』

「ああ。こっちにいる間だけ、な……」

 言葉は控えめに―――俺はリビングでソファーに座りながら、新しく買った携帯越しに姉にそう語りかけた。

 以前の話を、俺は了承することにした。

 なぜ、と聞かれたら多分自分でもわからない。

 ただ彼女を助けてやりたい、あの時そう感じるようになった心の変化が、今の私を形作っているのだろう。

『なんかあった?』

「いや……多分、何も」

『―――そっか』

 今は引っ越し屋に持ってきてもらった荷物を、空いていた俺の隣の部屋に詰め込んで、香奈の寝室にしたところだった。

 香奈はと言うと、振り返ればあわただしくリビングと寝室を行ったり来たりしている。

「ええっと、制服ってこんな感じかな……うーん、似合わないよぉ」

 ソファー越しにのぞけば、胸元の赤いリボンが鮮やかで、それと対照的に黒いスカートはとてもきれいだった。

 ただ、スカートが短めなのか、それ以上に覗かせる白い足は本当にほっそりとしていて、俺は少し照れくささに笑みをに滲ませつつ、慌てふためく姪っ子から視線を外した。

『香奈の様子、どう?』

「ふふっ……今も慌てふためいているよ。制服が合わんらしい」

『――――あんたが笑う声、久しぶりに聞いたわ』

「……」

『ごめんね……ずっと苦労させていたみたいで』

「もう終わったことだ。そっちにはもう戻る縁もゆかりもないからな。興味のない話だしな」

『―――香奈のこと、よろしくね』

「彼女が決めることだ―――香奈がイヤじゃないなら、面倒はいくらでも見てやるさ」

『香奈の面倒見だけは、あんたいいものね』

 ――そりゃそうだ。

 俺は、彼女にとって『ヒーロー』らしいからな。

 彼女にとって、俺の存在が居場所になるのなら―――彼女が笑ってくれるのなら、俺は何年でも何十年でも彼女の傍にいよう。

 それがきっと、愛情と言うものになるのだろう。

 未だによく、わかってはいないが―――多分、これでいいのだろう。

 きっと……。

「また後で連絡する。香奈のことは任せてくれ……」

『ん―――ああ、一つだけ』

「ん?」

『避妊はしてね』

 ――そっと電源ボタンを私は押した。

 ああ、そうだ。私があの家でどうにも居場所がないと感じた理由の一つはこれだ――――――あのアホ女の空気の読めなさ加減だ。

 クソが。

 もう会うことがないとは思うが、それでも私は顔面に拳をぶつけたくなり、手の中で新しい携帯をまた握りつぶさんとしていた。

「ったく……」

「ねぇねぇ、お兄ちゃんっ」

 呼ばれるままに、まるで鶴の一声のように、心の中のドロドロが消えて、代わりに熱っぽいものが胸の奥から湧き上がった。

 今すぐに振りかえりたい――そんな気持ちを理性で抑えつつ、大人のふりをして私は、少しぎこちないそぶりでゆっくりと後ろを振り返った。

「……どう、かな?」

 ――そこには制服姿の、本当に綺麗な黒髪の少女が立っていた。

 まだ幼いもののすらりとした華奢な体つき。

 両手は制服の袖に半分隠れたまま、控えめに膨らんだ胸元のスカーフを抑え、長い脚を覗かせたスカートはもじもじと体をよじるたびに靡いていた。

 肩まで伸びた長い黒髪。

 幼い笑顔を照れくさそうに滲ませつつ、頬をうっすらと赤らめ、そこには姪の香奈がリビングの入口に立っていた。

「可愛い……かな?」

「――――ああ。綺麗だ」

「――――真顔で言われると、その……恥ずかしい」

「ん……すまない。だが可愛いし、綺麗だ」

「……うんっ。ありがとう、お兄ちゃん」

 少し俯いて恥ずかしそうに身体をよじらせると、香奈は顔を上げ嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔が、私には、とても綺麗だった。

 おそらくこんな笑顔を高校の連中は年がら年中見ることになるのだろう―――そう思うと、顔をだらしなく綻ばせながらも胸の内がぐるぐると渦巻いた。

 ああ……。

 私は、すごく嫉妬深いのだろう。

 それを否定することもできず、私は彼女に今の胸の内を伝えると

「じゃあ、毎日迎えに来てっ。私、ずっとお兄ちゃんと一緒に家に帰るからっ」

「毎日……少し難しいかもな」

 できないわけじゃない。営業の外回りが続けば、時間も空いて下校時間に香奈の学校まで迎えに行くことができる。

 時間なんていくらでも作れる。

 彼女の為に―――

「えへへっ、じゃあ約束ねっ」

「破ったらどうなるんだ?」

「うーん……日曜日に私と一日デートッ。その日は他のことなんかしないでずっと私のそばにいてねお兄ちゃんっ」

「――――重たいペナルティだ」

「でしょっ」

 彼女はそう言って少しいじわるっぽく微笑んで、肩をすぼめる私の顔を上目づかいに覗きこんだ。

 覗きこむ蒼い瞳は、とてもきらきらとしていた。

 まるで宝石のようだった―――

「……だが、いいのか?香奈」

「何が?」

「入学式、お前の母親と父親は来ないぞ?」

「お兄ちゃんが来てくれるなら、他にいらないもん」

「……」

「お兄ちゃん、初めての高校の入学式……絶対来てね」

「――――ああ、必ず行く。もう予定で一日休暇もいれてるしな」

「ほんとっ?じゃあ終わったら一緒に近くの喫茶店行こうっ。ねっ」

「ああ」

 ―――彼女の学費は、俺が払うことにした。

 香奈には伝えてはいない。

 これは俺個人の、意地という奴だ。

 おそらく、彼女が大学に行くことになろうとも、それは多分代わりのないことだろう。

 この先、彼女が俺を必要としてくれるのなら、こんなちっぽけな体や命、惜しくもなければいくらでも使ってやりたい。

 彼女がほほ笑んでくれるのなら―――

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「ん。いや―――香奈が傍にいると、心が落ち着くと思ってな……」

「――――私も」

 香奈は照れくさそうに微笑み、私の顔を覗きこむ。

 そして不意に、ほんの少しだけつま先立ちで背伸びをして、惚ける私の顔により近付いていく―――

「お兄ちゃん……」

「ん?」

「目、一緒にね……閉じてほしい」

「?わかった……」

 彼女がそう言って目を閉じる。

 私はというと言われるままに、背伸びをする彼女に言われるままに、目を閉じて少しだけ項垂れる―――

 ―――クイッと首に絡むほっそりとした腕。

 小さな手に引っ張られるままに上体が少し前のめりになり、私は瞼を閉じたまま、彼女の顔に身体を近づけた。

 そして、口元に感じる彼女の吐息。

 熱っぽい息遣いと共に小さな濡れた唇が口元を這うのを感じる。

 緊張に零れる私の息遣いと彼女の吐息が混ざって、舌が僅かに重なり合う。

 キスをしている。

 暖かい―――

「……お兄ちゃん」

「香奈……」

「――――す、好きだよっ」

 濡れた唇を離し、ぽかんとする私を見上げ、真剣な表情で声を震わせながら、香奈は惚けた私に力強くそう言った。

 その言葉は、今までの何よりも、胸に響いた。

「香奈……その……」

「うん……」

「そのぉ……あぅ……」

 私は強張った顔を赤くして、少し俯いたまま、何も言えず、ひたすら照れくささに髪をかき上げては彼女の真剣な視線から顔をそむけた。

 そして何度も言い淀み、迷い、戸惑い―――私は顔をあげた。

 息を何度も吸い、顔を赤らめながら、真剣な彼女の青い瞳に言葉を投げかける―――

「――――お、俺もだ……好きだ」

「……えへへっ、緊張するね」

「……。下手なことやらせんでくれ。これで何回目だ」

「これから何回もするよ?」

「……」

「覚悟してねっ、お兄ちゃんっ」

 ―――結局、私中心だった今までの生活は、彼女の登場によって崩れ落ちた。

 今はもう、全てが香奈中心の生活に変わっている。

 俺の居場所は、もうこの部屋から無くなってしまった。

 だけど、代わりに手に入れたものもあった。

 それは―――

「えへへっ、お兄ちゃん。そろそろ出掛けよっか」

「……迷子になるなよ」

「大丈夫っ、お兄ちゃんがずっと手を握ってくれるから。迷子になんてならないもん」

「そりゃそうか……」

「いこっ、お兄ちゃんっ」

 彼女はそう言って、俺の手を引っ張る。

 その手は相変わらず、小さくて熱っぽくかった。

 私の、世界で一番好きな彼女の手だった。





       完