はい。昔の小説です。




屋上で、僕はその女の子を見た。

病院の、物干しざおに干されたシーツがきれいに並んだ、無愛想な屋上。

何もないフェンスだけがまるで動物園の獣を閉じ込めるかのようにあたりを取り囲む冷たい空間。

彼女が立っていた

色白で、白髪が混ざっていて、それでいて腰あたりまで伸びた長い髪。

病院服を着て、裸足で、自分の何倍の背丈もあるフェンスを見上げて、冷たい青空を仰ぐ小さな女の子。

さみしげな横顔。

ギュッとフェンスを握り締めている。

今にもその白い肌から血が滲みそうなくらいに―――

フワリとシーツが衣擦れの音を立てて風に舞う。

彼女の長い髪もフワァと風に漂って、ほっそりとした小さな背中が立ち尽くす僕の視界に映った。

差し込む秋の日差しに、彼女の背中はとてもきれいに映った。

まるでその背中から翼が生えてきそうなくらいに―――








「私ね、もうすぐ死ぬの」

一言、彼女は最初に僕にそう告げた。

いきなり出会って、ベンチに座って、最初の一言だった。

まだたがいに名前も名乗っていないのに、彼女はそう言ってほほ笑んでいた。

怖くないの、とは尋ねられなかった。

怖いに決まっているのに。

それでも彼女はパタパタと床につかない足を前後させ、時折僕を見上げて、嬉しそうに笑っていた。

その笑顔は屈託なく、嬉しそうだった。

「昨日ね、私、ご飯一杯食べたの。お茶碗に一杯のご飯っ。おいしかったよっ」

その日から、少しずつ僕は彼女とこの屋上で会うことにしていた。

午後一時。

屋上の隅の小さなベンチで、30分。

長いような、短いような時間の中で、僕は隣に座る小さな少女の笑顔を見つめ、微笑む彼女の唇からこぼれる話を何度も頷いていた。

「テレビもね少しだけ見れた……何が面白いのかわからなったけど」

「明日は検査なのっ。多分注射とか痛いけど、私泣かないよっ。だって強いものっ」

「もう少ししたら一般病棟から隔離なんだけど……お兄ちゃんには会えるよっ。だって外には出られるものっ」

「でも……もうすぐ歩けなくなるって……呼吸が出来なくなって、頭の中真っ白になって……」

「それでねっ、死んじゃうのっ、私っ」

彼女は微笑んでいた。

「歩けるなくなったら、お兄ちゃんに会いに行けないね」

病棟に行くよ。

僕がそう言ったら、彼女は微笑みながら力いっぱい長い髪を振り乱し僕の言葉を否定した。

「だぁめっ。お兄ちゃんとは毎日ここで会うのっ」

「私の部屋に来ちゃダメだよっ」

「絶対だからねっ」

少しだけ頬を膨らませ眉をひそめて、子どもに言いつける母親のように、彼女は口酸っぱく僕にそう告げた。

僕はぎこちなく頷いた。

少女はまた微笑んで、私の手を握ってくれた。

「歩けなくなるまで、お兄ちゃん。ここでまたお話してね」

――わかった。

そうとしか言えなかった。

願わくば、そんな日が永遠に来ないことを願って、僕はぎこちない仕草で頷くしかなかった。

「よかった……ありがとうお兄ちゃんっ」

少しかすれた甲高い声で、少女は微笑んだ。

本当に、とてもうれしそうに笑っていた。

僕の手を握る、その小さな手はとても熱かった。

まだ彼女は生きていた。

カーン……カーン……。

遠くから聞こえる隣の中学校の五限を告げるチャイムの鐘。

僕らの時間が終わる音。

彼女は少しふらつきながら、よろよろと身をよじりベンチから足をおろし、立ち上がると、私の前に立って小さく手を振った。

「じゃあお兄ちゃん、また明日ねっ」

私はぎこちない笑顔で手を振った。

少女は優しく微笑んでいた。





彼女と屋上で会話を交わし続けて、気かづけばひと月が経過していた。

その間に母の骨折入院が終わり、母はこの病院から出ることになった。

僕もこの病院を訪れる理由はなくなってしまった。

最後、というわけではないけれど、僕は母が病院を出るその日に、あの屋上へとやってきた。

午後一時。

同じベンチの下で僕は彼女を待った。

僕がこの病院を出ていくと、彼女に伝えたかった。

だけど、やってきたのは空しさと胸騒ぎだけだった。

カーン……カーン……

遠くでチャイムの鳴り響く音が聞こえる。

午後一時半。

―――もうすぐ、歩けなくなるかもしれない。

彼女の言葉が頭の中をよぎった。

気がつけば、僕はベンチからはじき出されるように立ち上がり、心の胸騒ぎにせかされるままに走りだしていた。

病院中を駆け回った。

ナースステーションの看護師の人に少女の特徴を聞き、医師の方に彼女の事を聞いて回った。

誰も知らないという。

誰もわからないという。

そんなはずがない。

彼女はここにいた。

彼女は屋上で微笑んでいた。

優しく、強く僕に微笑みかけていた、とても強く僕の手を握り締めていてくれた。

傍にいてくれた―――――

気がつけば午後三時。

見つけたのは、七階のとある個室病棟。

得体のしれない機械に囲まれて、いくつもの管に腕を刺されて、大きなベッドにくくりつけられて、彼女がそこにいた。

苦しげに胸元を上下して、顔をしかめて目を閉じていた。

何かに耐えるように――――

「……陽菜……ちゃん」

僕は彼女の名前を呟く。

彼女は少しだけ目を開けるとびっしりと汗をかいた顔をこちらに向けて、僕を見上げた。

焦点の合わない目が僕を見つめ、そして程なくして、目をスゥと細め、彼女は呼吸器の下で少しだけ微笑んだ。

嬉しそうだった。

「おにい……ちゃん……」

「―――ごめん……遅れて……」

「ううん……来てくれて……嬉しい」

――彼女は嘘をついていた。

僕はあの場所に彼女がいなくなるまで、その嘘に気付いてあげられなかった。

僕は―――

「……私ね……もうすぐ死ぬの」

そんなことない。そんなことないッ。

僕は彼女の手を握り締める。

細くて握れば今にも手折れそうで、とても冷たくて。

それでも僕は彼女の小さなその手を強く握りしめる、僕の体の熱が彼女へと移るように。

生きてほしい。

生きて、また彼女と話をしたい。

「……お兄ちゃん……」

こんなところで死んでどうするんだッ。

君はもっと生きていい人間なんだ。神様だってそう言ってくれるはずだ……もっと生きようとしてくれよ。

なんで……死のとするんだよ……!

「……ごめんね……ごめんなさい」

違う……そんな言葉が聞きたいんじゃない。

僕は……僕はっ。






あの日から、彼女と出会う場所は屋上のベンチから、狭い彼女の個室へと変わった。

今度は僕の方から話を始めることにした。

中学校のこと。クラブのこと、クラスメイトのこと。学校の行事のこと。

クラスメイトは相変わらずバカで、よく僕も一緒に教師に怒られてるって。

秋が近いから、運動会の準備が始まっていて、クラスの準備は中々思うように進まなくて困るって。

今度は君と一緒に運動会に出てみたいって。

彼女は微笑んでいた。

呼吸器越しに少し苦しげな息遣いをにじませながら、それでも僕の手を僅かに握り締め、優しく頷いてくれた。

「お兄ちゃん……一緒に……みたいね……運動会」

ああ。

今度一緒に見に行こう。

冬は除夜の鐘を聞きに行こうっ。

春は一緒に夜桜を見に行こう。

夏は一緒に海に行こうっ。

秋は、ずっと一緒に君といようっ。

「―――うん。……約束、だね」

彼女はわずかに小指を動かし、僕の小指に絡めた。

僕は彼女と指切りをする。

そしてまた彼女の手を握る。

―――神様……彼女を殺さないで……彼女を死なさないで

僕は彼女のそばにいたい。

彼女の傍でずっと――

――神様……神様ッ






―――叶ったのか、叶わなかったのか、それはわからなかった。

わかったのは、彼女の病室はなかったということ。

また、彼女は僕の前から姿を消した。

――どうして……。

昨日はまだ元気だった。

まだ優しく微笑んでいた。

あんなに手も動かしていた。

なのに――――

胸が苦しくて、息ができなくて、僕は気がつけば、かかりつけの医師に噛みつくかの如き勢いで問い詰めていた。

医師は困った顔をしていた。

「波田野陽菜ちゃん、か――彼女は別の病院に移ったよ……」

いつ。どこ……!

追いかけたかった。

追いかけて、彼女の手を取らないといけない。

彼女は死のうと―――

「いたたたっ……外国の病院だよ」

「え……」

「あの子はハーフだし、向こうに親族も大勢いるみたいだし、なにより提供者の数は断然向こうの方が多いから適合者も見つかりやすい」

「あ……ああ……」

「……助かる可能性を模索してのことだよ。嘘はつかない」

―――涙が出た。

なぜかはわからないけど、多分、すごく嬉しかった。

彼女は死のうしているんじゃない。

生きようとしているんだ。

頑張ってこの世界で、自分の命を探して、生きようとしているんだ―――

「……彼女、この病院にずっといたいって最後までゴネてたよ……誰のせいかは、敢えて聞かないけど」

医師は少し恨めしげに僕にそう告げた。

「それでも最後はここを出ることを選んだ――誰かに会いたいって言ってたよ」

僕は涙が止まらず、その場で泣きじゃくった。

僕はようやく、医師の襟もとから手を離した。







後日。

彼女からエアメールが届いた。

まだ少しぎこちない、たどたどしい日本語だった。

『お兄ちゃんへ。勝手に出て行ってごめんなさい。

 私、生きることに決めたよ。

 お兄ちゃんがね、生きてほしいって何度も言ってくれたの。

 本当はわたし死ぬつもりだったけど、お兄ちゃんが生きてほしいって言ったから生きることに決めたの。

 だって、お兄ちゃんあんなに真剣に私にそう言うから。

 あんなに楽しそうに学校のこと話すから。

 あんなにお兄ちゃんが笑ってくれるから  
 
 私お兄ちゃんと一緒に生きたくなった。

 お兄ちゃんと一緒に、いろんな景色を見たくなった。桜とか夏の海とか冬の景色とか、秋の運動会とか。一緒に見たくなったの。

 お兄ちゃんが笑ってくれるから、私もね元気でいられる。

 お兄ちゃんが傍にいたから、私生きようと思った。

 

 もしかしたら、私適合者っていうのがいなくて死んじゃうかもしれない。

 でも最後まで頑張るよ。最後まで頑張って、必ずお兄ちゃんのところに帰るから。

 必ず、帰ってくるから。待っていてください。



 


 大好きです              

                      お兄ちゃんへ』

僕は手紙を読みながら、胸が締め付けられるような、胃の中がぐるぐるとかき回されるような思いがした。

嬉しいような、さびしいような気持。

今すぐ彼女の下に会いに行きたい。

今すぐ彼女のそばに行って話をしたい。

彼女の手を、握っていたい。

僕はその日から勉強の合間を縫って、大量のエアメールを書き連ねることにした。

内容はそれほど酷はないけれど、今日起きた学校のこと、今日食べたご飯のこと、明日のこと、昨日の事。

君に会いたいということ。

ずっと傍にいるということ。

彼女に伝えられること、伝えたいことを全て言葉に載せて紙に書き連ねた。

汚い字が紙に映って、何度も書き直して、いつも寝るのは深夜になるけど、僕は手紙を書くことをやめなかった。

郵便屋さんには、時間指定で届くように頼んだ。

午後一時、彼女の下に届くように―――





高校受験が始まり、勉強をする最中、それでも僕はエアメールを届け続けた。

毎日の勉強、どこの高校に行くか、その高校がどんなもので、どこにあるかなんかを伝えられる限りに書いた。

彼女もその言葉にエアメールで返してくれた。

楽しそう。そっち行ってみたい。

必ず行くね。

絶対行くから。

そう言ってくれた。

それだけで心の中が炎のように湧きあがって、勉強なんてしなくても模擬試験で上位がとれるほどに頭が冴え渡った。

そして希望通りの高校への進学が決まった時―――

―――ごめんなさい。もう手紙は出さないでください。

彼女はそう言った。

何度送っても、もう彼女からエアメールは届かなくなった。

三度目。

彼女は僕の前からいなくなってしまった。





未だ彼女がどこにいるかわからないまま、僕はとぼとぼと学校に行く準備を家の中ではじめていた。

手には鞄。服はブレザーに赤のネクタイ。

鏡に映るのは何一つ代わり映えのしない、中肉中背の男の顔。

ただし顔色はとても悪く、今にも死にそうだった。

―――怖かった。

もしかしたら、彼女はもう死んだのではないか、適合者がいなかったのではないか、手術に耐えられなかったのではないのか。

もう、会えないのではないか。

また涙があふれた。

情けない。

どれだけ頑張っても、勉強を続けても、彼女に会えないようじゃ、彼女を救えないようじゃ―――

なんで……僕は生きているんだろうか。

僕は―――

「宗一ィ!学校遅れちゃうわよぉ!」

情けない人間だ。

結局言われるままに生きて、言われるままに生かされるだけの人生じゃないか。

彼女が生きようとしていたのに―――僕は未だにこんな家の中に閉じ込められたままだ、生かされたままだ。

彼女に会いに行きたい。

死んでいるのなら僕が死んでも会いに行きたい。

なんでもいい。

彼女の笑顔を見たい―――

「……行ってくる」

背中を押されるままに僕は、この檻からようやく出る。

そして次の檻へと僕は歩いていく―――

「おに―――ふにゃぁ!」

「ごほっ」

何かがぶつかる感覚。

ものすごい速度で走ってきていたのか、すっごく痛い。

僕は後ずさるままに胸元にぶつかってきた何かに顔をしかめつつ、視線を下に落とした。

そこには小さな制服姿の少女。

同じ高校の制服で赤いスカーフとブレザーとスカートを身にまといながら、鼻を痛めた様子で鼻筋をさすっているのが見えた。

うっすらと灰色の瞳に浮かぶのは涙。

痛みを訴える小さな唇。

肩まで切りそろえたアッシュブロンドのすらりと伸びた髪をなびかせ、少女は紅い鼻をさすり、呆ける僕を見上げる。

そして唇を開く――

「えへへっ、サプライズっ」

―――彼女は微笑んだ。

よく知る、笑顔だった。

「―――陽菜……ちゃん?」

「えへへっ……二歳飛び級っ」

声が震えた。

喉がガラガラになって身体が胸の奥からゴォオオオッて燃え上がって、耳まで真っ赤になっていくのを感じた。

―――神様……神様……!

「髪ね……今まで染めてたの。黒じゃないと見栄えが悪いから」

「お兄ちゃんずっと高校の話してたから。すぐに場所わかったよっ」

「ここにいるって、お兄ちゃんがこの場所で私を待ってるって」

「お兄ちゃん……」

「ただいまっ」

彼女が、ここにいた。

僕は呆けて声も出せず、ただただ立ち尽くしていた。

ただ彼女の少しはにかんだ、微笑みを見下ろしていた。

少し照れくさそうに頬を染め、彼女は小さな手を僕に絡めて少しだけ腕を引っ張った。

とても暖かった。

生きてる熱を感じた。

彼女は生きていた―――

「学校行こうっ。お兄ちゃんっ」

「一緒に桜の花びらを見に行こうっ」

「ずっと……ずっと一緒だからねっ」

「お兄ちゃん……大好きっ」

彼女は優しく微笑んだ―――――