起きれば、そこは病院ではなく、どこか別の、大きな部屋だった。
和風な襖と障子戸が四方を囲い、薄暗い闇の中、明かりすらなく僕は分厚い布団の中に体を横たえていた。
高そうな掛け軸が壁に立てかけられ、僅かに空いた障子の向こうから広大な小石を敷き詰めた庭が広がり、宵闇を紛らわせるように淡い光、月明かりが零れてあたりをほのかに照らす。
そしてその光を背に、長い影が僕の布団を横切り、襖に浮かぶ。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
月明かりに照らされた、綺麗な章がいた。
目を開き、眼球を僅かに動かせば、そこには泣きじゃくるリナがいた。
幼い顔は変わらず涙でくしゃくしゃになっていて、服装は和服のまま月明かりに、その長いアッシュブロンドの髪を透き通らせまるで妖精のような姿で彼女が傍に座っていた。
じっと僕を見下ろし、布団の中のぼくの手をずっと握っていた。
暖かさが伝わってくるのがわかった。
とても、暖かくて、僕はジワリと涙を流した―――
「リナ……ごめん……」
「お兄ちゃん……私……お兄ちゃんがもう起きないんじゃないかって……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
リナはそう言って僕の体に覆いかぶさる。
重たくなくて、まるで天使の翼のように軽くてふわふわでぷにぷにで、そしてとても暖かい。
何も変わらない―――彼女がそこにいた。
もう、会えないと思ったのに―――そう考えるだけで涙がボロボロとあふれて僕は泣きじゃくって顔を伏せるリナの頭を何度も撫でた。
「……リナ……ごめんね、僕……バカで」
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
「本当は一人でお前を守りたかったのに……ずっと守りたかったのに……」
「お兄ちゃん……ずっと傍にいて、私から離れないで……」
囁く彼女の嘆きに、僕はただ「ごめんね」としか呟けなかった。
僕はただ泣きじゃくる妹の髪を何度も撫でた。
あの女に打たれてから、数日ほど僕は生死の境をさまよったようだ。
あの女はというと―――
「ふふっ……息子を道具扱いする不貞な輩は、この屋敷に一歩たりと入れさせておらんよ」
そう告げるのは、大広間の奥、包帯を胸に巻いて着物を羽織って胡坐をかく僕の前に座る、大柄な老人の言葉だった。
顔はまるで岩壁の如く皴だらけでとてお嶮しく、それでいて白く長いまゆ毛の向こうに、柔和な表情をにじませるのは、その人生経験のなせる業だろう。
髭をさすり、長い白髪を覗かせ、目の前で大柄な老人は、嶮しい表情を浮かべる僕を見下ろし、ニッコリと笑ってその貫禄を滲ませていた。
そしてこの老人―――僕の祖父は、僕にこう言った。
「すまぬな、達也。お前に無理を言って」
「息子を殺そうとした母親はどこにいった」
「今頃、厳しいお仕置きを受けているのではないかな?いくら甘いワシとはいえ、街中で銃撃戦をやらかすバカを見逃してやるほど愚かではない」
「……」
「さて、そんな事を聞きたいのではないのだろう?達也、リナよ」
祖父は僕の隣に座り、僕に寄り添う妹を見下ろし、スゥと目を細めた。
ビクリと震える小さな肩。
キッと老人を睨みつけるままに妹は身体を縮こまらせ、僕の体に身体を押し付けては、ギュッと僕の着物に爪を食い込ませしがみつく。
弾痕がまだ熱といたみを発して痛いんだけど―――
「リナ……あのね……少し痛いかも」
「お、お兄ちゃんが本気出したら……あんたなんて一撃なんだからっ!」
「全然人の話聞いてないし……」
深いため息が自然とこぼれ、僕は苦い表情をにじませながら、再び老人を見上げた。
老人は笑っていた。
肩を大きく震わせ、顔中の皴と言う皴を寄せ、その大柄な身体を大きく上下させながら、豪快に口を開け大声をあげて笑っていた。
「あははははっはっ、孫にここまで嫌われるとは全く哀しくて涙が出そうだ!」
その姿はまさにどこかの王様のような雰囲気で―――
「あはははははっ……いやいや、これ以上大事な跡取りを傷つけるなどといった真似はせんよ」
「跡取り……か」
「お前もリナも、ワシの大事な孫で、大事な―――大事なワシの跡取りじゃ」
「……」
「まったく、これだけを伝えたくてお前たちを呼んだと言うのに、あの間抜けは……血が繋がってなかったら指を詰めるだけでは済まさぬと言うのに」
そう言って、老人は深いため息をつく。
だけど僕は――
「――-僕はここにはいられない」
「ほぉ」
とため息をついてうなだれていた祖父は、僕を見上げては興味深そうに眼を細め、前のめりに僕のこわばった顔を覗きこんできた。
「構わん、話してくれ」
「簡単な話だ。僕はリナと一緒に暮らしたい。あんたらは僕らにとって不要なんだ。必要ないんだ」
「この老いぼれは黙っていても数年でぽっくり行く。そうなれば次の跡取りはお前だ、なんなら二人で権利を分け合ってもいい。二人だけの世界をなんなりと作れば良い」
「黙れよ」
「ならば聞こう、坊主が何を考えておる」
更に面白そうに眼を細め顔中のしわを寄せる祖父に、僕は語気を強めて告げた。
「行ったろう。あんたらが不要なんだ、全部いらないんだ」
「お兄ちゃん……」
「僕とリナと普通の生活があればそれでいい。それ以外は障害物だ、他の全て、消滅してしかるべきだ」
「―――私もお兄ちゃん以外は何もいらないもんっ!」
「だから僕はこの家を出る―――リナをここに置いていく」
「……え?」
とたんに青ざめていくリナをよそに告げる僕の言葉に、老人はギョッと驚いたような表情で大柄な体をのけぞらせ僕を見下ろした。
「ほぉ、妹をここに置くと?」
「ここは安全だ、少なくともあのトリガーハッピーが妹に近付くことはないんだろう?」
「絶対の保証を誓おう」
「ならリナをこの屋敷に置き、今まで通り学校に行かせるんだ。今まで通り普通の生活をやらせろ、それ以外のことを強要することを僕は絶対に認めぬ」
「解せんな。お前はどうする」
「僕は―――この屋敷を出て一人で暮らす」
「自分の力で女を養うか」
「どこの誰かもしれない人間のおこぼれに与ってあんたらのわけのわからん伝統と格式の中に生かされる――我慢がならんと言っている」
「強い心がけだ。十年間娘の恫喝を跳ね返してきただけのことはある」
「最終的に、あの女が俺達に手を出した時点で、あんたらの負けだよ」
「無論承知の上よ、これはいわば敗戦処理にすぎんよ」
ニヤニヤと老人は笑う。
下劣な表情に眉をひそめながらも、僕は小さくため息をつき妹の方に振りかえろうとした。
「だからリナ、今後は――」
「バカぁ!」
「ごぼぉ!」
顔の形を抉るごっついストレート――妹の必殺技。
横っ面を思いっきり殴られた僕は、放物線を描いて天井に激突、そのまま吹き飛ばされて僕は部屋の隅の襖を突き破って廊下に転がる。
「なんでそんなこと言うのさ!ずっと一緒に暮らしてきたのになんで!?」
妹は息も荒く、きょとんとする老人を横目に目に涙を浮かべて、痙攣する僕を睨みつける。
僕は身体を起こすと、腫れあがったほっぺたをさすりながら起き上がるとにじり寄って襟元をひっつかむ妹に冷や汗を浮かべ苦笑いをにじませた。
「あはは……リナ痛い」
「ごまかすな!なんで私を置いていくの?私が邪魔?私お兄ちゃんとずっと一緒にいたい!」
今にも天井に突き刺さらんばかりに襟首を掴まれ持ち上げられながら、僕は息苦しさに顔をしかめて苦い表情を浮かべた。
「あのね……僕は……ただの高校生だ」
「知ってるもん、リナも小学生だもん!」
「だから―――僕は、僕一人の稼ぎでリナを支えていない。そこにいるよぼよぼの爺さんとあの女の財力でようやく成り立っていた生活なんだ」
「じゃああの爺さんボコボコにしたら私と一緒にいられるの!?」
「うーん、違うかも……」
――いや、正解なのかな?
息ができなくなり顔が青ざめていく中、僕はひたすら苦笑いを浮かべ首をかしげ、ひたすら顔を真っ赤にして泣きじゃくる妹に高い高いをされていた。
と、老人は見かねた様子で体を起こすままに妹の方へと、心配そうに話しかける。
「これこれ痴話げんかも大概にせんか」
「うっさいクソ爺!お兄ちゃん説得したら次はあんたの顔凹ませるから覚悟しなさい!」
「……」
黙りこくる老人をよそに、リナはようやく僕を解放し、僕は妹の足元で蹲るままに、息苦しさに首元をさすり彼女を見上げた。
「どうして……どうしてよ」
――泣いていた。
ぼろぼろと涙を大きな青い目に浮かべ、目を一杯擦りこぼれおちる涙でプニプニのほっぺたを濡らす様子は子供のころから何も変わっていなかった。
いつも僕のそばにいた妹の姿だった。
大好きだなって思った。
だから泣いている顔も可愛くて、シスコンの僕は咳こみながら立ち上がると、彼女の透き通った髪をそっと撫でた。
あやすように撫でれば、いつものように背中の痙攣が治まり、少しだけすすり泣く声が小さくなる。
「りぃな。僕の方を見て、お願い」
「……おにいちゃん」
僕がそう呼べばいつものように、僕の顔を涙でいっぱいにしながら見上げてくれる。
可愛い妹の泣き顔が目に映って、僕は鼻水をしゃくりあげる彼女の白くて柔らかいほっぺたをむにむにと両手でつまんではこねこねとした。
多分これが最後かもしれないから―――
「僕はね……いつか必ずリナを迎えに来る。あの家をもう一回自分のお金で買って、それから一緒に住もう」
「いや!お兄ちゃんと今すぐ帰る!一緒にご飯食べて、一緒に学校行くの!」
「だぁめ。お兄ちゃんお金がないんだ、だから今から一杯稼ぎにいく。稼いで稼いで―――それからリナを迎えに行くんだ」
「いやぁ!お兄ちゃんが傍にいなきゃやだぁ!」
「ブラコンだなぁリナは……」
嫌がるように何度も首を振るリナ。
僕は少し困って彼女の頭を撫でていると、リナはまだ包帯の巻かれた僕の胸元に飛び込んできて、訴えるような眼で僕のことを見上げた。
「お兄ちゃん……また一緒に帰ろう。一緒に学校行こうよ……」
痛かったけど、妹の体があったかくて、僕はなだめるように妹の背中を撫でては、笑顔をにじませた。
「大丈夫だよ、友達もできればいずれ彼氏もできる。リナは可愛いからね」
「作らない!お兄ちゃんより弱い奴なんていらない!」
「リナちゃんはブラコンだなぁ……」
「ブラコンなのはお兄ちゃんのせいでしょぉお!」
「――――うん、だからリナの為に僕はけじめをつけたいんだ」
「いやぁ!」
――埒が明かない。
仕方がない。
僕は胸元で首を振って顔をこすりつけるリナの頭をそっと撫でると、彼女の蒼い瞳を覗きこんだ。
「じゃあ約束だ」
「ふぇ……?」
「僕がもし二年たってこっちに戻ってこなかったら――リナを迎えに来なかったら、リナが僕を迎えに来てくれ」
「……ここに?」
「うん……。その時はここの爺さんの言うとおりここに住んで跡取りでも何でもする。ここでリナと一緒に暮らせるようにするよ」
「――――お兄ちゃん……」
「だから、もう少しだけここにいてリナ。絶対に迎えに来るから」
「……本当?」
「嘘つかない。だからリナも覚えておいて」
「……二年経ったら、お兄ちゃんを迎えに行くの?」
「場所も教える、どこにいくかもずっと教えるから」
「……会いたくなったら……そっちに行っていい?」
「うんっ」
「―――わかった……」
息が少し消沈し、妹は力なくうなだれるままに、コクリと頷いて見せる。
安堵に零れる溜息。
僕は表情を固めると、奥でニヤニヤと笑う老人、僕の祖母を睨みつけては、顔を胸元に埋める妹を強く抱きしめた。
「……妹は僕のものだ」
「これはワシとの約束にもなるのかの?」
「二年経ったら僕の首をひっつかんでこっちに連れ戻して構わない」
「鬼の心構えだ」
「ただし、リナに手を出すな。リナにまとわりつくものすべてを排除しろ、その点で妥協と甘えを僕は決して認めぬ」
―――自分でそう言いながら、相当ブラコンだなと感じた。
それでいて結局最後までこの家に、この連中に頼らなければ妹を守りきれないということの情けなさに、身ぶるいと吐き気を覚えた。
悔しかった。
強くなりたい。
妹を一生守っていけるくらいに強く、もっと強く―――
「お願いします、おじいさん……」
「断れば鉄拳が飛んできそうじゃ」
「もう飛んでますよ」
と言った瞬間、リナは僕の体から離れ、神速の動きで老人に踏み込むと、拳を二発、刹那の内に腹と顔面にたたき込んでいた。
「ごぼぉ!」
「跡取りとか何とかあんたのくだらない理由でぇ!お兄ちゃんが苦労する!お兄ちゃんから離れないといけない!こんな!こんな理不尽を許す私じゃないわよぉおおおおお!」
「痛い!痛いぞリナよ!」
「馴れ馴れしいのよ!ぶち殺すぞぉおお!」
馬乗りになってぼこぼこにされる老人と拳をめり込ませ飛び散る返り血を浴びる妹を見つめながら、僕はほっこりとした表情で立ち尽くしていた。
――これが最後かもしれない。
はしゃぐ妹とじゃれあう祖父を見つめながら、僕は少しさみしさと未来への期待を胸に押し込んだ。
(違う……最期じゃない、これから続くんだ。リナを迎えに行くために)
――必ず、迎えに来るから。
子供のころからシスコンの僕は、馬乗りで血しぶきを浴びる妹の背中を見つめ、強くそう誓った。
「ま、前が見えぬ!」
「そのまま死んじゃえクソジジイぃいいいいい!」
その夜、妹が眠るころ、僕はこの屋敷を出て、都会へと足を運んだ。
妹を守るため。
自分の力で彼女を支え、一緒に生きていくために―――
和風な襖と障子戸が四方を囲い、薄暗い闇の中、明かりすらなく僕は分厚い布団の中に体を横たえていた。
高そうな掛け軸が壁に立てかけられ、僅かに空いた障子の向こうから広大な小石を敷き詰めた庭が広がり、宵闇を紛らわせるように淡い光、月明かりが零れてあたりをほのかに照らす。
そしてその光を背に、長い影が僕の布団を横切り、襖に浮かぶ。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
月明かりに照らされた、綺麗な章がいた。
目を開き、眼球を僅かに動かせば、そこには泣きじゃくるリナがいた。
幼い顔は変わらず涙でくしゃくしゃになっていて、服装は和服のまま月明かりに、その長いアッシュブロンドの髪を透き通らせまるで妖精のような姿で彼女が傍に座っていた。
じっと僕を見下ろし、布団の中のぼくの手をずっと握っていた。
暖かさが伝わってくるのがわかった。
とても、暖かくて、僕はジワリと涙を流した―――
「リナ……ごめん……」
「お兄ちゃん……私……お兄ちゃんがもう起きないんじゃないかって……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
リナはそう言って僕の体に覆いかぶさる。
重たくなくて、まるで天使の翼のように軽くてふわふわでぷにぷにで、そしてとても暖かい。
何も変わらない―――彼女がそこにいた。
もう、会えないと思ったのに―――そう考えるだけで涙がボロボロとあふれて僕は泣きじゃくって顔を伏せるリナの頭を何度も撫でた。
「……リナ……ごめんね、僕……バカで」
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……!」
「本当は一人でお前を守りたかったのに……ずっと守りたかったのに……」
「お兄ちゃん……ずっと傍にいて、私から離れないで……」
囁く彼女の嘆きに、僕はただ「ごめんね」としか呟けなかった。
僕はただ泣きじゃくる妹の髪を何度も撫でた。
あの女に打たれてから、数日ほど僕は生死の境をさまよったようだ。
あの女はというと―――
「ふふっ……息子を道具扱いする不貞な輩は、この屋敷に一歩たりと入れさせておらんよ」
そう告げるのは、大広間の奥、包帯を胸に巻いて着物を羽織って胡坐をかく僕の前に座る、大柄な老人の言葉だった。
顔はまるで岩壁の如く皴だらけでとてお嶮しく、それでいて白く長いまゆ毛の向こうに、柔和な表情をにじませるのは、その人生経験のなせる業だろう。
髭をさすり、長い白髪を覗かせ、目の前で大柄な老人は、嶮しい表情を浮かべる僕を見下ろし、ニッコリと笑ってその貫禄を滲ませていた。
そしてこの老人―――僕の祖父は、僕にこう言った。
「すまぬな、達也。お前に無理を言って」
「息子を殺そうとした母親はどこにいった」
「今頃、厳しいお仕置きを受けているのではないかな?いくら甘いワシとはいえ、街中で銃撃戦をやらかすバカを見逃してやるほど愚かではない」
「……」
「さて、そんな事を聞きたいのではないのだろう?達也、リナよ」
祖父は僕の隣に座り、僕に寄り添う妹を見下ろし、スゥと目を細めた。
ビクリと震える小さな肩。
キッと老人を睨みつけるままに妹は身体を縮こまらせ、僕の体に身体を押し付けては、ギュッと僕の着物に爪を食い込ませしがみつく。
弾痕がまだ熱といたみを発して痛いんだけど―――
「リナ……あのね……少し痛いかも」
「お、お兄ちゃんが本気出したら……あんたなんて一撃なんだからっ!」
「全然人の話聞いてないし……」
深いため息が自然とこぼれ、僕は苦い表情をにじませながら、再び老人を見上げた。
老人は笑っていた。
肩を大きく震わせ、顔中の皴と言う皴を寄せ、その大柄な身体を大きく上下させながら、豪快に口を開け大声をあげて笑っていた。
「あははははっはっ、孫にここまで嫌われるとは全く哀しくて涙が出そうだ!」
その姿はまさにどこかの王様のような雰囲気で―――
「あはははははっ……いやいや、これ以上大事な跡取りを傷つけるなどといった真似はせんよ」
「跡取り……か」
「お前もリナも、ワシの大事な孫で、大事な―――大事なワシの跡取りじゃ」
「……」
「まったく、これだけを伝えたくてお前たちを呼んだと言うのに、あの間抜けは……血が繋がってなかったら指を詰めるだけでは済まさぬと言うのに」
そう言って、老人は深いため息をつく。
だけど僕は――
「――-僕はここにはいられない」
「ほぉ」
とため息をついてうなだれていた祖父は、僕を見上げては興味深そうに眼を細め、前のめりに僕のこわばった顔を覗きこんできた。
「構わん、話してくれ」
「簡単な話だ。僕はリナと一緒に暮らしたい。あんたらは僕らにとって不要なんだ。必要ないんだ」
「この老いぼれは黙っていても数年でぽっくり行く。そうなれば次の跡取りはお前だ、なんなら二人で権利を分け合ってもいい。二人だけの世界をなんなりと作れば良い」
「黙れよ」
「ならば聞こう、坊主が何を考えておる」
更に面白そうに眼を細め顔中のしわを寄せる祖父に、僕は語気を強めて告げた。
「行ったろう。あんたらが不要なんだ、全部いらないんだ」
「お兄ちゃん……」
「僕とリナと普通の生活があればそれでいい。それ以外は障害物だ、他の全て、消滅してしかるべきだ」
「―――私もお兄ちゃん以外は何もいらないもんっ!」
「だから僕はこの家を出る―――リナをここに置いていく」
「……え?」
とたんに青ざめていくリナをよそに告げる僕の言葉に、老人はギョッと驚いたような表情で大柄な体をのけぞらせ僕を見下ろした。
「ほぉ、妹をここに置くと?」
「ここは安全だ、少なくともあのトリガーハッピーが妹に近付くことはないんだろう?」
「絶対の保証を誓おう」
「ならリナをこの屋敷に置き、今まで通り学校に行かせるんだ。今まで通り普通の生活をやらせろ、それ以外のことを強要することを僕は絶対に認めぬ」
「解せんな。お前はどうする」
「僕は―――この屋敷を出て一人で暮らす」
「自分の力で女を養うか」
「どこの誰かもしれない人間のおこぼれに与ってあんたらのわけのわからん伝統と格式の中に生かされる――我慢がならんと言っている」
「強い心がけだ。十年間娘の恫喝を跳ね返してきただけのことはある」
「最終的に、あの女が俺達に手を出した時点で、あんたらの負けだよ」
「無論承知の上よ、これはいわば敗戦処理にすぎんよ」
ニヤニヤと老人は笑う。
下劣な表情に眉をひそめながらも、僕は小さくため息をつき妹の方に振りかえろうとした。
「だからリナ、今後は――」
「バカぁ!」
「ごぼぉ!」
顔の形を抉るごっついストレート――妹の必殺技。
横っ面を思いっきり殴られた僕は、放物線を描いて天井に激突、そのまま吹き飛ばされて僕は部屋の隅の襖を突き破って廊下に転がる。
「なんでそんなこと言うのさ!ずっと一緒に暮らしてきたのになんで!?」
妹は息も荒く、きょとんとする老人を横目に目に涙を浮かべて、痙攣する僕を睨みつける。
僕は身体を起こすと、腫れあがったほっぺたをさすりながら起き上がるとにじり寄って襟元をひっつかむ妹に冷や汗を浮かべ苦笑いをにじませた。
「あはは……リナ痛い」
「ごまかすな!なんで私を置いていくの?私が邪魔?私お兄ちゃんとずっと一緒にいたい!」
今にも天井に突き刺さらんばかりに襟首を掴まれ持ち上げられながら、僕は息苦しさに顔をしかめて苦い表情を浮かべた。
「あのね……僕は……ただの高校生だ」
「知ってるもん、リナも小学生だもん!」
「だから―――僕は、僕一人の稼ぎでリナを支えていない。そこにいるよぼよぼの爺さんとあの女の財力でようやく成り立っていた生活なんだ」
「じゃああの爺さんボコボコにしたら私と一緒にいられるの!?」
「うーん、違うかも……」
――いや、正解なのかな?
息ができなくなり顔が青ざめていく中、僕はひたすら苦笑いを浮かべ首をかしげ、ひたすら顔を真っ赤にして泣きじゃくる妹に高い高いをされていた。
と、老人は見かねた様子で体を起こすままに妹の方へと、心配そうに話しかける。
「これこれ痴話げんかも大概にせんか」
「うっさいクソ爺!お兄ちゃん説得したら次はあんたの顔凹ませるから覚悟しなさい!」
「……」
黙りこくる老人をよそに、リナはようやく僕を解放し、僕は妹の足元で蹲るままに、息苦しさに首元をさすり彼女を見上げた。
「どうして……どうしてよ」
――泣いていた。
ぼろぼろと涙を大きな青い目に浮かべ、目を一杯擦りこぼれおちる涙でプニプニのほっぺたを濡らす様子は子供のころから何も変わっていなかった。
いつも僕のそばにいた妹の姿だった。
大好きだなって思った。
だから泣いている顔も可愛くて、シスコンの僕は咳こみながら立ち上がると、彼女の透き通った髪をそっと撫でた。
あやすように撫でれば、いつものように背中の痙攣が治まり、少しだけすすり泣く声が小さくなる。
「りぃな。僕の方を見て、お願い」
「……おにいちゃん」
僕がそう呼べばいつものように、僕の顔を涙でいっぱいにしながら見上げてくれる。
可愛い妹の泣き顔が目に映って、僕は鼻水をしゃくりあげる彼女の白くて柔らかいほっぺたをむにむにと両手でつまんではこねこねとした。
多分これが最後かもしれないから―――
「僕はね……いつか必ずリナを迎えに来る。あの家をもう一回自分のお金で買って、それから一緒に住もう」
「いや!お兄ちゃんと今すぐ帰る!一緒にご飯食べて、一緒に学校行くの!」
「だぁめ。お兄ちゃんお金がないんだ、だから今から一杯稼ぎにいく。稼いで稼いで―――それからリナを迎えに行くんだ」
「いやぁ!お兄ちゃんが傍にいなきゃやだぁ!」
「ブラコンだなぁリナは……」
嫌がるように何度も首を振るリナ。
僕は少し困って彼女の頭を撫でていると、リナはまだ包帯の巻かれた僕の胸元に飛び込んできて、訴えるような眼で僕のことを見上げた。
「お兄ちゃん……また一緒に帰ろう。一緒に学校行こうよ……」
痛かったけど、妹の体があったかくて、僕はなだめるように妹の背中を撫でては、笑顔をにじませた。
「大丈夫だよ、友達もできればいずれ彼氏もできる。リナは可愛いからね」
「作らない!お兄ちゃんより弱い奴なんていらない!」
「リナちゃんはブラコンだなぁ……」
「ブラコンなのはお兄ちゃんのせいでしょぉお!」
「――――うん、だからリナの為に僕はけじめをつけたいんだ」
「いやぁ!」
――埒が明かない。
仕方がない。
僕は胸元で首を振って顔をこすりつけるリナの頭をそっと撫でると、彼女の蒼い瞳を覗きこんだ。
「じゃあ約束だ」
「ふぇ……?」
「僕がもし二年たってこっちに戻ってこなかったら――リナを迎えに来なかったら、リナが僕を迎えに来てくれ」
「……ここに?」
「うん……。その時はここの爺さんの言うとおりここに住んで跡取りでも何でもする。ここでリナと一緒に暮らせるようにするよ」
「――――お兄ちゃん……」
「だから、もう少しだけここにいてリナ。絶対に迎えに来るから」
「……本当?」
「嘘つかない。だからリナも覚えておいて」
「……二年経ったら、お兄ちゃんを迎えに行くの?」
「場所も教える、どこにいくかもずっと教えるから」
「……会いたくなったら……そっちに行っていい?」
「うんっ」
「―――わかった……」
息が少し消沈し、妹は力なくうなだれるままに、コクリと頷いて見せる。
安堵に零れる溜息。
僕は表情を固めると、奥でニヤニヤと笑う老人、僕の祖母を睨みつけては、顔を胸元に埋める妹を強く抱きしめた。
「……妹は僕のものだ」
「これはワシとの約束にもなるのかの?」
「二年経ったら僕の首をひっつかんでこっちに連れ戻して構わない」
「鬼の心構えだ」
「ただし、リナに手を出すな。リナにまとわりつくものすべてを排除しろ、その点で妥協と甘えを僕は決して認めぬ」
―――自分でそう言いながら、相当ブラコンだなと感じた。
それでいて結局最後までこの家に、この連中に頼らなければ妹を守りきれないということの情けなさに、身ぶるいと吐き気を覚えた。
悔しかった。
強くなりたい。
妹を一生守っていけるくらいに強く、もっと強く―――
「お願いします、おじいさん……」
「断れば鉄拳が飛んできそうじゃ」
「もう飛んでますよ」
と言った瞬間、リナは僕の体から離れ、神速の動きで老人に踏み込むと、拳を二発、刹那の内に腹と顔面にたたき込んでいた。
「ごぼぉ!」
「跡取りとか何とかあんたのくだらない理由でぇ!お兄ちゃんが苦労する!お兄ちゃんから離れないといけない!こんな!こんな理不尽を許す私じゃないわよぉおおおおお!」
「痛い!痛いぞリナよ!」
「馴れ馴れしいのよ!ぶち殺すぞぉおお!」
馬乗りになってぼこぼこにされる老人と拳をめり込ませ飛び散る返り血を浴びる妹を見つめながら、僕はほっこりとした表情で立ち尽くしていた。
――これが最後かもしれない。
はしゃぐ妹とじゃれあう祖父を見つめながら、僕は少しさみしさと未来への期待を胸に押し込んだ。
(違う……最期じゃない、これから続くんだ。リナを迎えに行くために)
――必ず、迎えに来るから。
子供のころからシスコンの僕は、馬乗りで血しぶきを浴びる妹の背中を見つめ、強くそう誓った。
「ま、前が見えぬ!」
「そのまま死んじゃえクソジジイぃいいいいい!」
その夜、妹が眠るころ、僕はこの屋敷を出て、都会へと足を運んだ。
妹を守るため。
自分の力で彼女を支え、一緒に生きていくために―――
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